先日、息子と一緒に『AIR/エア』という映画を観ました。ベン・アフレックが監督、マット・デイモンが主演を務めた2023年のアメリカ映画で、日本でも同じ年に公開されています。
描かれているのは1984年、バスケットシューズ業界では劣勢だったナイキが、NBAデビュー前のマイケル・ジョーダンと契約を結ぶまでの実話です。
観終わったあと、僕の頭に残っていたのは、ジョーダンのことではなく、自分が新卒で入った会社のことでした。創業まもないころのナイキを支えたのは日本の商社です。それが僕の古巣である日商岩井(現・双日)だったのです。
倒産寸前のナイキに、日商岩井は賭けた
1971年のことです。ナイキはまだブルーリボンスポーツという社名で、日本製のランニングシューズを輸入して売る、社員30数名の小さな会社でした。
信用や信頼といった面ではまだ弱く、会社の将来性も未知数。当然ながら、地元の銀行が貸してくれるお金の額は小さいものでした。
創業者のフィル・ナイトは、ポートランドにある日本の銀行の支店にも融資を頼みましたが、断られてしまいます。そのとき銀行の担当者が、こう教えてくれたそうです。このビルのエレベーターで9階に上がると「日商岩井」という日本の商社があるから、相談してみたらどうか、と。
ナイトは当時33歳。若さゆえの勢いもあって、アポイントも取らずに9階へ行きます。結果的に、スポーツシューズの将来性に賭けた日商岩井は、この小さな会社との取引を決めました。
これが「ナイキ」というブランドの誕生です。日商岩井はその後、1977年から日本でナイキ製品の販売を始め、1981年には合弁でナイキジャパンを設立しました。ナイキが日本に広まっていく入り口の役目を、まるごと引き受けたのです。
ナイキの本社には「日商岩井ガーデン」がある

この話には続きがあります。1990年、オレゴン州にあるナイキ本社の敷地内に日本庭園が造られました。言い出したのは日本好きで知られるナイト本人で、庭の名前は「日商岩井ガーデン」です。
日商岩井の側も、木の橋や石碑、桜の木65本を贈っています。2011年には取引開始から40年の節目に、当時の双日の社長がこの庭を訪れて植樹をしました。
困っていたときに手を貸した商社と、その恩を40年たっても忘れなかった会社。なんともステキなアフターストーリーです。
60年かけて積み上がったブランドの力

2023年に公開された『AIR/エア』を観ようと思ったきっかけは、この夏のMLBオールスターゲームでした。
MLBのユニフォームは2020年からナイキが手がけていて、どの選手の胸にもナイキのマークが入っています。スパイクは選手が自分で選ぶものですが、それでも半数近くの選手がナイキを履いています。防具も同じで、バッターが肘やすねを守るガードも、キャッチャーが胸や脚に着けるプロテクターやレガースも、どのブランドを使うかは選手それぞれです。
そんな中、あるキャッチャーのプロテクターに、ジャンプマンと呼ばれるマイケル・ジョーダンのシルエットのロゴが入っているのが目にとまりました。バスケットボール選手のロゴが野球の試合の中にあっても、誰も不思議に思わないところまで浸透している会社は、ナイキのほかにないと思います。
1964年の創業から、ここまで60年以上。靴底のワッフルソール、ジョーダンとの契約。「Just Do It」というスローガン。アパレルへの進出。どれも、最初から順風満帆ではなかったはずです。うまくいったものが次の一手の土台になり、それが積み重なって、他社が簡単には追いつけない差になりました。
ブランドは、複利で増えていく資産だと僕は考えています。利息が次の利息を生むのと同じで、短い期間では差がつかない代わりに、時間をかけた分だけ後から来た会社が追いつけなくなるのです。
ナイキの年間売上は、いま460億ドルを超えています。その出発点にいたのは、アポイントも取らずに9階のドアを叩いた、33歳のフィル・ナイトだったのは間違いありません。
僕がこの話を何度も思い出す理由
僕は、アメリカでShikohinという日本発のウェルネスブランドを経営しています。54歳になった今、ナイキと日商岩井の話を以前よりよく思い出すようになりました。
ナイキが今のポジションになるまでには、60年の歳月がかかりました。それは、無名の会社を信じた日商岩井の担当者の判断と、助けられた恩を忘れなかったナイキ創業者の感謝から始まった足跡です。派手な戦略より先に、まず人と人との信頼が大切だと教えてもらった気がします。
僕にも、これまでの道のりで助けてくれた人が何人もいます。長く続くよいものを生み出すことこそ、その恩に報いることだと、ナイキと日商岩井の話は思い出させてくれます。

